Clubhouseの盛り上がり方を憂う
ここ最近、よく耳にするClubhouseという招待制SNS。
有名人やクリエイターがここ数日でぽつぽつと参入し始めていることに、どうももやもやした気持ちが拭えないでいる。
説明するまでもないと思うが、Clubhouseとは音声に特化したSNSとして人気を博している。
ユーザーは話し手と聞き手に分かれ、話し手のことを「スピーカー」と、聞き手のことを「オーディエンス」と呼ぶ。基本的にスピーカー同士で会話をしているのをオーディエンスが聴く、というスタイルでありスピーカー側から指名があればオーディエンスからスピーカーとなる事も出来るようである。
Clubhouseはアプリをダウンロードしアカウント登録を行うと公式のウェイティングリストにアカウントが載り、公式から順番に招待されるまでひたすら待たねばならない。ようやっと自分が呼ばれてから初めてスタートできるシステムとなっているのだ。
実際にどれくらいの期間で公式から招待されるのかは不明であるが現状の熱狂ぶりを見ているとおそらく相当待たないといけないだろう。
一方で既にClubhouseに参加しているユーザーは、自身の友人や知人を公式のウェイティングリストの順番に関係なく優先的に招待できる権利を得る。アプリの使用度合いによって変動するようであるが参加したての場合は2名までと非常に少ない。
TwitterやInstagramのように友達がいなくても自分でアカウント登録を行い直ぐに見られるものではなく、非常に選民的で私のような社会のはみ出し者には無縁な世界なのである。
この熱狂的な盛り上がりぶりに私が一番怯えていることが、タレントやクリエーターによるClubhouseの「ファンコンテンツ化」である。
ここ数日、Clubhouse上で多くの芸能人がアカウント登録を行い、大多数が友人や知人の招待を受けいち早く参加している。私が応援している音楽クリエイターやタレントも流れに乗りClubhouse上で早速スピーカーとしてトークを楽しんでいるようである。
しかし、その会話を聴くことが出来るのはClubhouseに招待されたごく一部の人間のみである。
社会カースト最下層の自分はその内容をどんなに聴きたくても決して聴くことは出来ない。
始めたばかりの芸能人達も手探り状態であり、現状ファンコンテンツとして成り立っているわけではないようだ。当人達も今はファンコンテンツとしてみなしているわけではなく、ただただこの流れを一個人として楽しんでいるに過ぎない。
しかしファンコンテンツの定義については置いといて、今後有名人の参加が進むにすれ確実にファンコンテンツとして活用する者は出てくるだろう。
Clubhouseは基本的にログを残すことが出来ず録音をする事も禁止である。後からようやく参加できたとしても既に終了した配信を聴くことはできない。私がウェイティングリストの順番待ちをしている間にもどんどん芸能人が参加し配信を始めるのだろう。
アプリ上ではオーディエンス側からはスピーカーに対してコメント等のアプローチをすることは出来ないので、ファンコンテンツとしては一見不向きにも見えるのだが、オーディエンスからスピーカーに引き上げることで交流は可能であるし、多数のオーディエンスから質問や感想を集めたければTwitter等の別のSNSをリアルタイムで用いることでカバー出来るのだろう(そもそもそこまでファンと交流したいのであればInstagramやYouTube上で配信を行うだろうしひとつのSNSで完結しない方法を用いてまでClubhouseでファンと交流を持つかは疑問ではあるが…)。
芸能人とファンとの間での「ここだけの話」。特別な秘密が増えていくことに「選ばれたファン」は優越感を抱く。
そこを狙ってClubhouse上で敢えて芸能活動を行い熱狂的なファンを増やす者も出てくるだろう。
対人関係に乏しくインドアな私は好きなタレントのTwitterを見たり、好きな歌手の音楽を聴いたりする事に生きがいを見いだしている。
それは、応援している芸能人達が誰でも見られるような開かれた場所で活動をしてくれているからこそ成立している。
所詮招待されない人間のひがみでしかないのだが、自分の好きな芸能人には、Clubhouse上で芸能活動をして欲しくないな、というのが正直な気持ちである。どうせ使うなら、完全プライベートとして割り切って欲しい。
勿論Clubhouseは決して悪くない。そしてClubhouseを使っている芸能人も悪くはない。ファンが好きな芸能人の活動を全て知る必要は無いし、それが行き過ぎた結果ストーカーまがいのファンになりたくはない。
しかし心は追いかけたい気持ちでいっぱいなのである。
ただただ自分が勝手に憂いているだけなのだ。
世間に、好きな芸能人達にまで要らないと、捨てられてしまう気がして。生きがいを失ってしまう気がして。
Clubhouseのアカウント登録を行って2日程経つが、未だに招待が来ることはない。
デヴィ夫人の90人パーティー報道を見て思ったこと
つい先日緊急事態宣言が発令され、まだまだ新型コロナウイルスの勢いは止まらない昨今。
ふと、こんなニュースを目にした。
杉村太蔵、デヴィ夫人の90人パーティー開催に異議「誰も感染していないという議論は、今は成り立たない」 : スポーツ報知hochi.news
私自身、杉村太蔵氏の未だ感染者が出ていないというのは結果論に過ぎないという意見に概ね同意なのだが、一方でデヴィ夫人がどれだけの感染対策を取っていたのかは未知数なのでなんとも非難しづらいところではある。
また、デヴィ夫人がパーティーを開催していた年末には、友人と食事に行ったり買い物に出かけたり、実家に帰省するなどといった行動は世間で多く見られ、彼女だけが非難されるのは何か違うな、とも感じるのだがそれらの行動と大規模なパーティーとを同一視するのは大袈裟な気もしてもやもやしてしまう。
ただひとつはっきりと言えるのは「自粛」という行為に社会全体がフラストレーションを溜めつつある、という事である。
溜まり切ったフラストレーションというものは、いつか爆発する。
本来であれば爆発しないように少しずつガス抜きをしていくべきなのだが、コロナ禍で思うようにガス抜きが出来なかった結果、この年末にパーティーや忘年会といった爆発が多方面で起きてしまった。
遊びに行きたい、パーティーをしたいなどといった欲求は"不要不急である"と軽視され、個人の裁量で我慢を強いられてきたように思える。
しかし、どんなことでも我慢すればそれなりにストレスは溜まるわけで、社交がライフワークとなっていた人達であれば尚更である。
よく「自粛と補償はセット」という言葉を耳にするが、この言葉は主に飲食店やサービス業等、経済的な部分に関する補償を指すようだ。
上述の言葉を借り、自粛生活に於いて発生するストレス等の精神的な負担に関しても何らかの補償、即ちサポートは必要不可欠だと思う。
そろそろ社会全体で、自粛におけるフラストレーションをどう解消していくかの議論を深めても良いのではないだろうか。
ここまで書いておいて何だが、自分自身、何らかの名案があるわけではない。
私は基本的にインドアのコミュ障であり、パーティーとは無縁のため、デヴィ夫人のような人達の気持ちが分からないのだ。
しかし、ここを理解できないと切り捨ててきたから報道のような大規模なパーティーが無くならない訳で。
個人的にオンライン飲み会は突破口となりそうで期待していたのだが、一般的なパーティーとは別物のコンテンツとして盛り上がっており、パーティー好きな層には刺さらなかったような気がする。
私自身がZoom飲みに参加した際はそれなりに楽しめたのだが、音声が聴き取りづらく同時に喋る事が難しい為ナチュラルな会話が出来ず、若干のもどかしさを感じてしまった。
コミュ障の自分が会話しづらいと感じるのだから社交的な人達はよりストレスになのではないだろうか。
現状、オンラインでの飲み会は別物と割り切って楽しむのがセオリーであり、対面式のパーティーの代わりにはなり得ないと感じる。
その他に考えられるのがインドアな趣味の提案、だろうか。
どちらにも触れていない自分が言うのも何だが、昨今の鬼滅ブームやあつ森ブーム、Netflixの台頭は、コンテンツそのものの地力が凄かったことは大前提でコロナ禍に室内で楽しめるものとして、より需要を伸ばした印象がある。
とはいえ上述に代表される様なインドアな趣味の提案はもう様々な媒体で出尽くしており、それらに満足出来なかった層が外出しているのだから今更感は拭えない。
自分の足りない頭であれこれ考えてはみたが結局答えは分からず終いである。
オンライン飲み会やインドアな趣味で賄えないものとは一体何なのだろうか。
そもそもパーティーによって得られる楽しさとは何だろうか、そして自粛の際にそれを補えるものとは何なのだろうか。
これらを理解し、解消しようとしない限り今回のような事は決して無くならない。
批判することで社会が良い方向に進むとは限らないのだ。
難しいところである。